【ビジネスマン必見】ホンダのバイク事業②設立→出会い→東京進出

   

■ホンダ・バイク事業の歴史:全7話

■ホンダのあつ~~い歴史②:二つの夢が出会う–ホンダ宗一郎と藤澤武夫-

画像出典:JAHFA

今回の話では、以下のような内容をお伝えしていきます。

  1. 本田技研工業株式会社を設立
  2. ホンダにとって最初のバイク「ドリームD型」がデビュー
  3. 当時のホンダに求められた「経営手腕をもつパートナー
  4. 運命の出会い
  5. 東京進出に向けて

 

それではホンダの熱いストーリーを、下記から詳しくみていきましょう。

【設立】本田技研工業株式会社

画像出典:ホンダ公式サイト

1948年には、従業員34人、資本金100万円の本田技研工業株式会社として設立しました。

 

自転車用補助エンジンA型の製造において、本田宗一郎は当時主流の量産化できない「砂型鍛造」ではなく、「ダイキャスト(金型鍛造)」を用いて、量産化する方法に強いこだわりを持っていました。

画像出典:ホンダ公式サイト

 

しかし、当時のホンダは資金不足により金型屋で依頼することはできなかったため、弟の弁次郎をはじめ乏しい道具で工夫して金型を手作りしてしまうような職人がいました。

初期型は一部だけがダイキャストで、そこから徐々に変えていき、後期型になると大部分がダイキャストになっていきました。

画像出典:ホンダ公式サイト

本田宗一郎は言いました。「同じ苦労をするんなら、先に苦労しろ」

資源のない国が削り屑を出すような仕事をせず、苦労は前工程で済ませるという信念があったのです。

塑性加工全盛の現代を見通した考え方で、従業員は50年も前から叩き込まれていたのです。

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【デビュー】ホンダ最初のバイク「ドリームD型」

自転車用補助エンジンA型は、好調な売れ行きを見せていました。

勢いを得た宗一郎は前進を続け、A型に続き「B型」「C型」と自転車用補助エンジンを開発していきました。エンジン出力も、A型の0.5馬力からC型の1馬力へと性能がアップしていたのです。

 

馬力の向上により、従来の自転車のパイプフレームでは、走行時の衝撃や振動に対する強度が物足りなくなってきていました。

 

そこで宗一郎が開発したのが新しいフレームでした。

鋼板をプレス型により成型するフレームは大量生産がたやすいうえに溶接が確実にできるという利点も兼ね備えていました。

C型自転車用補助エンジンは、自転車の車体を溶接によって無理やり補強したうえに、リアカーのタイヤをはかせていました。そのため、デザインがあまり良くなかったのです。

 

【資金難】経営手腕をもつパートナーの必要性

1949年、設立から1年しか経っていなかったホンダは資金力不足でした。

 

ホンダ初のバイク「ドリームD型」がデビューするなど急成長は見せていたものの、戦後間もない混乱期の真っただ中にあった時代で、納入した代金を踏み倒されることもありました。

画像出典:ホンダ公式サイト

エンジンの評判は良くても、会社の経営は綱渡り状態だったのです。

 

技術的に全身全霊を傾けてしまう本田宗一郎には、経営手腕をもったパートナーが求められていました。

 

代金取立て屋を追い払う作戦

この頃のホンダは、代金取立て屋を追い払う作戦を実行していました。

取り立て屋が工場で待っていると、本田宗一郎が従業員に「ボルトが緩んでいるから締めろ」と指示を出します。そして、「さっさと締めろ」といって怒鳴る宗一郎の姿を見て、取り立て屋は怖くなって逃げていきます。

当時のホンダだからできた、「辛かった時代の面白エピソード」として今も語り継がれているようです。

 

【運命】出会い

1949年8月、1人の男が本田宗一郎を訪ねました。

宗一郎の家の前にあったのは、完成したばかりの新作「ドリームD型」でした。

訪ねてきた男の名は「藤澤武夫」で、後のホンダ技研工業の副社長です

その頃の宗一郎は会社の設立に資金を使い果たしていたため、その生活はお世辞にも豊かとはいえませんでした。

一方の藤澤武夫は明治43年東京に生まれ、若い頃に独立して「日本機工研究所」設立しましたが、戦争で疎開していました。疎開先の福島県では製材業を始めました。

通産省(当時)技官「竹島弘」の引き合わせにより、宗一郎を訪ねることになったのです。

藤澤の暮らしは苦しいことに変わりはありませんでしたが、持ち前の誠実さと商才で一定の信頼を得ていました。何より、宗一郎のがむしゃらに負けない迫力をもつロマンチストでもあったのです。

そして、二人は宗一郎の庭で獲れた小麦で作ったうどんを食べました。のちに藤澤は、「このときに食べたうどんの味は忘れられない」と晩年に語っています。

本田宗一郎42歳、藤澤武夫38歳のことでした。

 

【拡大】東京進出に向けて

世界で勝負するために、ホンダは東京に出ることを決意します。

そして、東京進出をはじめ二人はあらゆることを、4回にわたって話し合いました。

宗一郎は、エンジンをつくる工場は浜松でも、オートバイを組み立てる工場と事務所は東京の一等地に欲しいという希望をもっていました。

宗一郎と藤澤は「これから何を作るかには口出ししないようにしてほしい」という約束をかわしました。

オートバイはたんすや呉服を作るのとは違って、品質の悪いものをつくってしまうと人の命に関わってしまうからです。

つまり、オートバイの製造は技術屋である宗一郎、経営は藤澤が担当することになったのです。

宗一郎の名参謀といわれた藤澤は、実印と会社経営の全権を委ねられていたのです。

この藤澤武夫の入社こそが、本田技研工業を飛躍させる最大の転機となりました。

2ヶ月後、藤澤武夫を常務としてむかえ東京営業所を設立しました。「技術の人」の本田宗一郎、「売る人」藤澤武夫、どちらも欠くことのできないふたつの強烈なパーソナリティが結びつき、大きな夢を実現していくようになるのです。

 

今回ご紹介した話の動画はこちら

今回お伝えしたストーリーは、ホンダの公式チャネルが配信している動画で確認できます。

Honda原点コミックVol.2 「二つの夢が出会う~本田宗一郎と藤澤武夫」

 

■ホンダ・バイク事業の歴史:全7話


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