【ビジネスマン必見】ホンダのバイク事業⑤海外進出アメリカ

   

■ホンダ・バイク事業の歴史:全7話

■いざアメリカへ -巨大市場を開拓せよ-

今回の話では、以下のような内容をお伝えしていきます。

  1. 世界の市場を視野に入れたホンダ
  2. 経済の中心・アメリカでの挑戦
  3. アメリカン・ホンダ設立
  4. 売れなくなったスーパーカブ

ホンダの熱い歴史を、これから具体的に見ていきましょう。

【決断】世界のどの市場に進出?

ホンダは、創業後わずか7年ほどで国内二輪業界のトップメーカーとしての基盤を固めつつありました。

この頃には、本格的に海外市場への輸出拡大を模索、ドリーム(250cc・350cc)やベンリイ(125cc)などを主力製品として海外輸出に傾倒しつつあったのです。

当時、バイクの海外輸出はメーカー直ではなく、商社を通して行われるのが一般的でした。

しかし、藤澤は過去の経験から、アフターサービスの必要なバイクを商社任せにして販売することを嫌っていました。自ら現地の市場を見て、その市場にふさわしい商売の仕方があると考えていたのです。

1956年には、ヨーロッパへ宗一郎と藤澤、東南アジアへは本社営業課長の「川島喜一郎(以下川島)」が現地調査に行っていました。

3週間あまりの超さを終えた川島は、東南アジアが有望な市場であることを藤澤に報告したのです。

すると藤澤は、川島にこう告げました。

「今度はアメリカを調査してきてくれ」

 

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【挑戦】自動車大国アメリカ

川島が見たアメリカは、まさに「自動車大国」でした。

鉄道網が発達しておらず国土の広いアメリカには、自動車が必要不可欠な存在だったのです。

一方のオートバイはレースやレジャーで遊ぶための道具、いわばセカンドカー的な扱いでした。

川島は、アメリカの市場に二輪が食い込む余地はないと実感してしまいます。

現地調査を終えた川島は藤澤に、「手始めに、アメリカより東南アジアの方が手掛けやすいのではないか。」と提案しました。

ところが藤澤は「やはり、アメリカをやろう」と言い出したのです。

「資本主義の牙城、世界経済の中心・アメリカで成功することで、ホンダのオートバイが世界に広がりやすくなる。

しかし、「アメリカでヒットしないような商品では、世界に打って出ることはできない。」藤澤は、そう考えていたのです。

 

当時のアメリカではライダーが嫌われていた

1950年代のアメリカでは、ライダーは「ブラックジャケット」と呼ばれて嫌われる存在でした。

バイクメーカーも少なく、ハーレー・ダビッドソン、NSU、BMW、トライアンフ、ノートンなどが築いた年間6万台ほどの大型バイクの市場が存在するにとどまっていました。大型バイクに乗る無法者たちの遊び道具だったことから、アメリカでは「汚い、悪い」イメージが定着していたのです。

 

【設立】アメリカン・ホンダ

1959年6月、アメリカのロサンゼルスに初の海外現地法人「アメリカン・ホンダ・モーター」を設立しました。

いくつかの候補地がありましたが、ロサンゼルスを選んだのは年間を通じて気候が温暖かつ雨がほとんど降らない気候だったからです。「雨が降らない=1年中商売が成り立つ」というチャンスでした。

しかし、現地の人の反応は「戦争に負けた日本で、そんなにいい製品ができるわけがない。何をもってきて売ろうとしたってそんな簡単にはいかないよ」というのが一般的な見方だったのです。

現地採用の5人を合わせて、合計10人でのスタートとなりました。

しかし、ホンダにとって市場は非常に厳しいもので、アメリカン・ホンダ設立後の販売実績はたったの8台でした。

彼ら8人は本格的に営業活動を開始。

オートバイ販売店にDMを送ったり、自ら訪問してPRに努めたりしたほか、地元の業界紙や雑誌に広告を出して販売店の募集を行いました。

主にハーレーなどのアメリカ車やトライアンフなどのヨーロッパ車を取り扱ってきた彼らからは、小型で角ばった奇妙なホンダのオートバイは売れないと思われていたのです。

しかし、実際に試乗すると走行性能は高く、サンプルとして買ってくれるようになりました。

ファン拡大の戦略として、釣りや狩りといったアメリカ人の遊びにターゲットを絞ったのです。

そして、スポーツ用品店やモーターボート販売店まで拡大していくようになりました。

 

【不調】売れなくなったスーパーカブ

翌年の1960年、アメリカの戦略は好転していきます。

レジャーとオートバイを結びつけるホンダの目論見は功を奏しました。

ところが、3月にはスーパーカブが売れなくなって、在庫の山になってしまうのです。

そして川島は藤澤にロサンゼルスまで呼び、現地を見てもらいました。

川島は、現地から「ベトナム戦争で若者がいなくなったからスーパーカブが売れなくなった」と聞いていました。

しかし、藤澤は人や車の往来を肌で感じ、若者がいなくなったせいではないと気づきます。

 

【復活】スーパーカブPS50

日本へ帰国した藤澤は、宗一郎に新作をつくるように依頼します。

藤澤自身は、宗一郎や従業員に仕事を任せて長期休暇を取ります。

アメリカの不振を感じさせないことろで宗一郎や従業員たちのモチベーションを上げたのです。

そして、これまでのスーパーカブを中止し、アメリカ人に受け入れられるスポーティーななタイプ「スーパーカブ PS50」などのラインナップを拡充し再びアメリカで大ヒットとなったのです。

 

今回ご紹介したお話の動画

今回お伝えしたストーリーは、ホンダ公式チャンネルで配信している動画でも楽しめます。

Honda原点コミックVol.4 「いざアメリカへ ~巨大市場を開拓せよ~」

画像出典:ホンダ公式サイト

■ホンダ・バイク事業の歴史:全7話


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