【ビジネスマン必見】ホンダの歴史⑦悲願のF1グランプリ制覇
この記事の目次
■ホンダ・バイク事業の歴史:全7話
- ホンダあつ~い歴史①:夢の始まり
- ホンダあつ~い歴史②:二つの夢が出会う
- ホンダあつ~い歴史③:経営危機からの脱出
- ホンダあつ~い歴史④:マン島TTレース
- ホンダあつ~い歴史⑤:海外進出アメリカ
- ホンダあつ~い歴史⑥:四輪進出からF1参戦
- ホンダあつ~い歴史⑦:悲願のF1グランプリ制覇
■悲願のF1グランプリ制覇
今回の話では、以下のような内容をお伝えしていきます。
- ぶつかり合う本田と中村の想い
- F1マネージャー中村の退陣
- 中村の復帰とメキシコGP
- ホンダ初のF1優勝
ホンダの熱い歴史を、下記より詳しくご紹介していきます。
第1章:ぶつかり合う本田と中村の想い
中村はチームが勝つことにこだわりを持っていましたが、宗一郎はホンダがかつことにこだわりをもっていました。
中村は「勝つためには現場に合ったやり方があり、例えホンダのものではなくても現時点で最高のパーツを使う必要がある」と考えていました。しかし、宗一郎は「ホンダはレース屋ではなく、夢は自分たちの技術で世界最高のバイクや乗り物を作ることにあり、そのうえで勝つ」という考え方だったのです。
その後、ホンダチームは立て続けに失敗してしまいます。続くイタリアGP、アメリカGPにおいてリタイアしてしまいます。この年、骨身を削って開発したF1マシン第1号RA271はすべてリタイアという結果となったのです。
立て続けに失敗に終わってしまい、中村は次のメキシコGPの不参加を決めます。チームのメンバーは悲観しておらず、この3戦で学んだことを来シーズンの1965年に活かすことだけを考えていたのでした。
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第2章:F1マネージャー中村の退陣
1965年、中村は宗一郎の命令によりF1マネージャーを外され、市販車の開発に専念することになりました。四輪の量産車を任された中村は、設計の指揮を取りながら遠巻きにレースをながめる立場となったのです。
F1に続いてF2にも参戦することになりましたが、どちらも苦戦を強いられることになります。出ると負けのレースが続き、エンジントラブルの原因を明確に説明できないと宗一郎からは「ばかやろう」と怒鳴られていました。開発チームのメンバーはプレッシャーで精神的に追い詰められ、食事が喉を通らない日も度々だったのです。
RA271のボディ材料をジュラルミンから耐食アルミ合金へと変更、エンジンを含めて改良したRA272を開発したのと同時に、2人目のドライバー・リッチーギンサーを迎え入れたのです。
1965年5月31日のモナコGP、6月13日のベルギーGP、6月27日のフランスGPに出場するも、ベルギーGPで6位に入賞するのがやっとでした。研究所では留守舞台が2ヶ月間泊まり込みで、エンジンの冷却性向上と重心の低下により、操縦性の向上を図る対策を講じていました。
イギリスGPでは一時トップを走行していたものの、26周でリタイアとなってしまいました。続くドイツGPでは6位、イタリアGPでも14位にとどまってしまいます。珍しく宗一郎が観戦にきたアメリカGPにおいても、ラジエーターに大きな柏の葉がはりついてオーバーヒートに悩まされ勝てませんでした。
残すところは、メキシコGPの1レースだけとなったのです。
第3章:中村の復帰とメキシコGP
もうグランプリと付き合うこともないことを悟った中村は、大きな決断をします。
再びF1レースへの参加を志願したのです。
メキシコGPは他のチームも過去2回の経験しかなく、ホンダにも勝てるチャンスがあると中村は悟りました。メキシコシティは標高2,300mの高地にある世界一空気の希薄なサーキット場で、ヨーロッパのチームの間では上手くエンジンが燃焼しない難所とされていたのです。
しかし、中村は酸素の薄い上空を飛ぶ航空機の元エンジニアということもあり、中村にとって空気が薄いことは大きな問題ではありませんでした。
イタリアGPから採用しているR272改には中村の入念なセッティングが施され、プライベートプラクティスのときから圧倒的な力を発揮していました。公式練習では、リッチー・ギンサーがコースレコードの1分56秒48秒を記録したのです。
ロータス、ブラバムの各チームがポールポジションを得るため記録を伸ばしたものの、ホンダはポールポジション争いせず3位のまま2列目のグリッドから出走することを選びました。
第4章:ホンダ初のF1優勝
1965年10月24日のメキシコGPで、リッチー・ギンサーが乗るホンダのR272はスタートからフィニッシュまで終始トップを走り続け、2位との差は2秒89でした。ついにホンダ念願の初優勝を飾ったのです。
ホンダがF1に参戦してからわずか2年目(通算11戦目)の快挙であると同時に、日本製のマシンとしての初めてのF1グランプリ制覇という歴史的な瞬間でもありました。
中村はコースの電信局から、有名なジュリアス・シーザーの勝利宣言を使った少しキザな電文を東京の本社へと送っています。「Veni,vidi,vici(来た、見た、勝った)」
当時のメカニックだった小池真一氏は、「キャリアは違っても技術は変わらない。そう思えてきたら自身が湧いてきてね。最終コーナーをトップで抜けてきたときは震えました。」と語っています。
宗一郎は、メキシコGP初優勝の報を受けて、記者会見で次のように語りました。
「勝っておごることなく、勝った原因を追求して、その技術を新車にもどしどし入れていきたい。」
今回ご紹介したお話の動画
今回お伝えしたストーリーは、ホンダ公式チャンネルが配信している動画でも楽しめます。
Honda原点コミックVol.5「来た、見た、勝った」
画像出典、引用:ホンダ公式サイト
■ホンダ・バイク事業の歴史:全7話
- ホンダあつ~い歴史①:夢の始まり
- ホンダあつ~い歴史②:二つの夢が出会う
- ホンダあつ~い歴史③:経営危機からの脱出
- ホンダあつ~い歴史④:マン島TTレース
- ホンダあつ~い歴史⑤:海外進出アメリカ
- ホンダあつ~い歴史⑥:四輪進出からF1参戦
- ホンダあつ~い歴史⑦:悲願のF1グランプリ制覇