【ビジネスマン必見】ホンダのバイク事業、あつ~い歴史①夢の始まり
2018/10/14
今、あなたは仕事に行き詰っていませんか?
そんなときは、日本の偉大な経営者のひとり「本田宗一郎氏」が築き上げた二輪・四輪メーカー「ホンダ」の歴史を知ることで解決の糸口がみつかるかもしれません。
本シリーズでは、ホンダのバイク事業の熱い歴史をご紹介していきたいと思います。仕事でお悩みの方、バイク好きの方は続編も含めて、ぜひ最後までご覧ください。
この記事の目次
■ホンダ・バイク事業の歴史:全7話
- ホンダあつ~い歴史①:夢の始まり
- ホンダあつ~い歴史②:二つの夢が出会う
- ホンダあつ~い歴史③:経営危機からの脱出
- ホンダあつ~い歴史④:マン島TTレース
- ホンダあつ~い歴史⑤:海外進出アメリカ
- ホンダあつ~い歴史⑥:四輪進出からF1参戦
- ホンダあつ~い歴史⑦:悲願のF1グランプリ制覇
■ホンダのあつ~~い歴史①:夢の始まり
シリーズ第一弾にあたる今回のお話では、ホンダ創業当時を中心に、以下のような内容をお伝えしていきます。
- 焼野原だった戦後に「本田技術研究所」を設立
- 無線機の発電用エンジンを自転車補助用エンジンに作り変える
- 自社製エンジンの開発に着手
それでは、下記より詳しくみていきましょう。
【設立】焼野原の戦後「本田技術研究所」
1945年8月、日本は太平洋戦争による度重なる空襲により焼野原になっていました。
太平洋戦争終結の翌年である1946年10月には、静岡県浜松市山下町に現在の「本田技研工業」の前身である「本田技術研究所」を設立しました。
39歳だった本田宗一郎氏(以下、敬称略)は所長に就任、そのとき日本で起こっていた繊維業界の景気を当て込んで織機などの開発を始めましたが、資金不足で行き詰ってしまいます。
そんなある日のこと、無線機の発電用エンジンを利用して何か作れないかと考えていた宗一郎には、一筋のアイデアがひらめきます。
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【着想】遠くへ買い出しに行く妻の苦労
自転車が主な移動手段だった当時、遠くへ買い出しに行く妻を思い出しました。
このとき、無線機の発電用エンジンを改良して自転車に取り付けて、オートバイにすることを発案したのです。
【発明】無線機の発電用エンジンを自転車補助用エンジンに
本田宗一郎は、旧日本陸軍払い下げの無線機の発電用エンジンを転用して、自転車の補助用エンジンを開発しました。
これが、世界のホンダの原点だったのです。
この時代のエンジンは大変だった
この時代のエンジンは、途方もなく厄介な代物といわれていました。
燃料の松根油(しょうこんゆ)が粗悪なことに加えて、エンジンを火で暖めたあとに30回以上ペダルを踏まなければエンジンが始動しなかったのです。
人は新しい交通手段に飢えていたこともあり、こんなエンジンでもよく売れていました。
戦時中~戦後、ガソリンの代用で使われた松根油とは?
画像出典:ハリマ化成
松根油(松根テレビン油とも呼ばれる)とは、松の切株を乾溜することで得られる油状液体のことです。
太平洋戦争中の日本において航空ガソリンの原料としての利用が試みられたものの、労力がかかるうえに収率も悪いため実用には至りませんでした。(4000万人を動員して採取するも、そもそも当時は原油からですら高オクタン価の高性能ガソリンを製造できなかった)
現在とは違った当時の販売方法
当時は、現在のように工場内で完成車を組み立てるのではなく、エンジンと走行に必要な部品をセットにして出荷していて、自転車屋が既存の自転車に組み付けて販売していたのです。
エンジン付き自転車(現在のモペット)は、エンジンからの騒音により「バタバタ」と呼ばれました。
【開発】自社製エンジンの開発に着手
早速、従業員を10名ほど雇い入れ、無線機用のエンジンを自転車用エンジンへとつくり変えました。
500基あったエンジンは注文が殺到し、たちまち在庫がなくなると、宗一郎は自社製エンジンの開発に着手します。
宗一郎が初めてつくったエンジンは、奇妙な形をしていました。それは従来の2ストロークエンジンよりも排気を良くするために、シリンダーの天井の内側に高いくぼみをもたせ、ピストンのくぼみに合う穴あきの高い鼻をつけたものです。
「エントツ式エンジン」と呼ばれ、1947年7月に完成しました。
デザイン性がよくなかったことから、これを基に改良して再び新しいエンジンを設計しました。そこで生まれたのが「A型エンジン」で、ホンダの名が記された最初の製品として「A型自転車用補助エンジン」が誕生したのです。
画像出典:ホンダ公式サイト
【逸話】社長自らレースに参加
本田宗一郎にはこんな逸話が残っています。
1948年10月、浜松市でオートバイレースがありました。レースといっても土のグランドで、1週400メートルを8周して争う草レースでした。
ホンダのオートバイもこのレースに出場、従業員が参加していました。ところが、ホンダのオートバイは他社になかなか勝てませんでした。
見ていられなくなってきた宗一郎は審査員席から出て、自らオートバイにまたがってレースに参加してしまうのです。
まだホンダが町工場の域を出ていなかったおおらかな時代の話で、高上も技術もまだ一流とはいえませんでした。しかし、負けず嫌いの宗一郎はこの時すでに日本一でなければ気が済まなかったのです。
今回ご紹介したお話の動画
今回ご紹介した話は、ホンダの公式動画でも公開されています。気になる方は、以下の動画をチェックしてみてください。
Honda原点コミックVol.1「夢の始まり」
■ホンダ・バイク事業の歴史:全7話
- ホンダあつ~い歴史①:夢の始まり
- ホンダあつ~い歴史②:二つの夢が出会う
- ホンダあつ~い歴史③:経営危機からの脱出
- ホンダあつ~い歴史④:マン島TTレース
- ホンダあつ~い歴史⑤:海外進出アメリカ
- ホンダあつ~い歴史⑥:四輪進出からF1参戦
- ホンダあつ~い歴史⑦:悲願のF1グランプリ制覇