【ビジネスマン必見】ホンダのバイク事業③経営危機からの脱出
この記事の目次
■ホンダ・バイク事業の歴史:全7話
- ホンダあつ~い歴史①:夢の始まり
- ホンダあつ~い歴史②:二つの夢が出会う
- ホンダあつ~い歴史③:経営危機からの脱出
- ホンダあつ~い歴史④:マン島TTレース
- ホンダあつ~い歴史⑤:海外進出アメリカ
- ホンダあつ~い歴史⑥:四輪進出からF1参戦
- ホンダあつ~い歴史⑦:悲願のF1グランプリ制覇
■ホンダのあつ~~い歴史③:経営の危機
画像出典:ホンダ公式サイト
今回の話では、以下のような内容をお伝えしていきます。
- 設立以来の最大の危機
- 従業員への説明とドリーム号不調の原因解明
ホンダの熱い歴史を、下記で詳しく見ていきましょう。
【危機】設立以来の最大の危機
1953年には、バイクだけではなく汎用事業も開始したほか、東京・八重洲に二階建て社屋を建設、浜松市から東京へと本社を移転しました。
画像出典:ホンダ公式サイト
1949年に完成した初の自社設計フレームを採用した排気量98cc2サイクル単気筒の「ドリームD型」から、排気量146ccの「ドリームE型」へと進化、以降は毎年改良が重ねられていました。
1954年には「ドリーム4E型」まで仕様変更が進んでいました。
この4E型には、思わぬ不調が起こりました。
「ブレーキをかけたときにエンジンが止まってしまう」「スロー回転のときにプラグがカブる」といった内容のクレームが殺到して、売れ行きが落ち込んでしまいます。
1954年、本田技研工業は折からの不況といくつかの計算違いが重なって、会社設立以来の最大の危機をむかえていたのです。
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【不振】販売不振と多額の設備投資
まず、「カブF型」がこれまでほどの勢いで売れなくなりました。
カブの人気に追従するメーカーが同種のエンジンを開発、自転車店の販売網へ参入してきたため激しい競争が起こっていました。
さらに、「ドリームE型」と同時に発売した「ジュノオK型」は、世界初のセルフスターターで数々の最新技術を織り込んだのですが、その重さ170kgと取り回しの不便さで思わぬ不人気を呼んで売れなかったのです。
また、手軽に扱える“便利さ“にちなんで名づけられた4ストロークの「ベンリイ」は、ギアとタペットの騒音が大きいと評判が良くありませんでした。
そしていまドリーム号までが不調、さすがの藤澤も同時期に主力商品がすべて不調となるなど考えもしませんでした。
それどころか成功を目論んで、前年には資本金600万円に対して4億5,000万円もの設備投資を行っていたのです。
【原因解明】エンジンかキャブレターか?
1954年4月、藤澤は自ら埼玉製作所に赴き、従業員全員を集めて危機の状況を率直に説明することにしたのです。そして5日間限定で200ccのドリーム号を製造することにしました。
翌月、続いて藤澤は外注業者全員に集まってもらい、部品代を支払うお金がないことを伝えます。
これは常識では考えられないことだったのですが、藤澤らしい誠実なやり方でした。
一方の宗一郎は、アクシデントの原因は「宗一郎が採用したショートストロークにあるのではないか?」という大方の見方に対して、必死に原因を探っていました。
不調の原因がキャブレターにあると確信していた宗一郎は、神奈川県小田原市にあるキャブレターのメーカーを訪れて、キャブレターの改良をお願いしました。
そしてそのキャブレターをドリーム号に取り付けると、エンジンは止まらなくなったのです。
ドリーム号の不調は宗一郎のエンジンではなく、キャブレターだったのです。
不調の大きな原因は、2つあることがわかりました。
①キャブレターとエンジンのバランス取り
②フロートチャンバーの取り付け不良
つまり、宗一郎の開発したエンジンの性能に、キャブレターの精度がついていけてなかったのです。
このあと、「ドリーム4E型」は本来の性能を取り戻し、ドリームEシリーズの中で最も多く生産されました。
今回ご紹介したお話の動画
今回お伝えしたストーリーは、ホンダの公式チャネルが配信している動画で確認できます。
Honda原点コミックVol.3 「経営の危機とマン島出場宣言」
■ホンダ・バイク事業の歴史:全7話
- ホンダあつ~い歴史①:夢の始まり
- ホンダあつ~い歴史②:二つの夢が出会う
- ホンダあつ~い歴史③:経営危機からの脱出
- ホンダあつ~い歴史④:マン島TTレース
- ホンダあつ~い歴史⑤:海外進出アメリカ
- ホンダあつ~い歴史⑥:四輪進出からF1参戦
- ホンダあつ~い歴史⑦:悲願のF1グランプリ制覇