【ビジネスマン必見】ホンダのバイク事業④マン島TTレース出場
この記事の目次
■ホンダ・バイク事業の歴史:全7話
- ホンダあつ~い歴史①:夢の始まり
- ホンダあつ~い歴史②:二つの夢が出会う
- ホンダあつ~い歴史③:経営危機からの脱出
- ホンダあつ~い歴史④:マン島TTレース
- ホンダあつ~い歴史⑤:海外進出アメリカ
- ホンダあつ~い歴史⑥:四輪進出からF1参戦
- ホンダあつ~い歴史⑦:悲願のF1グランプリ制覇
■ホンダのあつ~~い歴史④:マン島出場宣言
画像出典:ホンダ公式サイト
今回の話では、以下のような内容をお伝えしていきます。
- 本田宗一郎、TTレース出場宣言
- 本田宗一郎、TTレース視察へ
- ホンダ念願のTTレース出場
ホンダの熱い歴史を、下記で詳しく見ていきましょう。
【出場宣言】マン島TTレース
この頃、本田宗一郎は「マン島TTレース出場宣言」を公表しています。
宗一郎と藤澤がいつ頃からこの計画を話し合っていたかは定かではありませんが、宗一郎はいつかこのレースに出たいと夢みていたのです。
マン島TTレースとは、イギリスのマン島で1907年から開催されていたオートバイの国際レースで、「マン島を制するバイクは世界最高のマシン」と称されました。
島の公道を使ったコースは
- 一周およそ60km
- 高低差およそ400m
- 200以上のコーナーをもつコースで、
- 平均時速120~150キロのペースで走る
まさに二輪のひのき舞台でした。
同年1954年、ホンダ(ドリームE型改造レーサーで大村美樹雄が参加)はサンパウロで行われた400年祭記念の国際レースに参加していたのですが、結果は25台中13位でした。
トップ争いはイタリア勢同士で、モンディアルに乗るパガーニが勝ちました。
ホンダの平均時速が約115キロ、パワーは6馬力に対し、モンディアルは130キロを超え馬力も2倍以上でした。
このとき、ヨーロッパからの参加車との大きな差を思い知らされることになったのです。
画像出典:ホンダ公式サイト
サンパウロ遠征で「井の中の蛙」だったことを痛感した宗一郎は、持ち前のチャレンジ精神を燃え上がらせて、イギリス・マン島のTTレースに参加することに決めたのです。
これは、当時の経営難によって落ちていた従業員のモチベーションを上げる意味もありました。
藤澤が文案を練った社内向け「マン島TTレース出場宣言書」
画像出典:ホンダ公式サイト
藤澤は、資金集めにおいて手腕を発揮します。
藤澤は銀行に行って融資を受けるときに頭を下げるような男ではありませんでしたが、企業に託した夢を語る男でした。結果、三菱銀行の方から「2億円の融資をさせてほしい」と申し出ることになったのです。
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1954年6月、本田宗一郎はイギリス・マン島で行われるTTレースの視察へ行きます。
会社の存続をかけた手形の決済を控えた時期に、あえて宗一郎をマン島へむかわせたのは藤澤でした。
本場のレースの水準は、宗一郎の想像をはるかに超えていました。
ヨーロッパの一流メーカーが仕立てたレーサーは、同じ排気量でつくった宗一郎のバイクの3倍もの馬力を出していたのです。
このときの宗一郎の視察は、かなり実のあるものになりました。
ひとつめは、日本では一般的になっているプラスネジは、宗一郎が初めて国内に持ち込んだことで有名です。
レース視察時に立ち寄ったヨーロッパの国で拾ってきたもので、そのネジを基に日本でつくられて広まっていったのです。(諸説あり)
画像出典:写真AC
もうひとつは、本格的な50ccバイクへの関心でした。
以前から欧州のペダル付きモペットではなく、50ccバイクの実用バイクの開発を打診されていました。
この視察を機に宗一郎は感心をもつようになり、本格的にプロジェクトがスタートされたのです。
画像出典:Wikipedia
この視察のときに宗一郎は欧州各国の工場視察をして、無駄なお金は一銭も使わなかったといいます。
そして、今後のバイク開発に役に立ちそうな部品を、資金の底が尽きるまで買い揃えていたのです。
宗一郎は、自分の目で世界の最新の技術を確かめたことによって、1954年に訪れた危機を脱しました。
そして、本田技研工業は飛躍的な成長を遂げ、日本のオートバイ生産の記録を次々と塗り替えていったのです。
翌年の1955年には、二輪車生産台数が日本一を達成しています。
【出場】ホンダ念願のTTレース
1958年、ホンダはロングセラーオートバイの「スーパーカブC100」を発売しました。
誰にでも扱いやすい便利な乗り物として大ヒットしました。
画像出典:ホンダ公式サイト
1958年9月、試行錯誤を繰り返しているところに、イタリアの市販レーシングマシンである125ccのモンディアルが手に入りました。
56年式の単気筒エンジンでしたが16.5馬力あり、1959年1月に完成したRC141というマシンでも、2気筒で15.3馬力でした。その後すぐに4バルブのRC142が17.4馬力になり、マン島へと送り出したのです。
画像出典:ホンダ公式サイト
1959年、ホンダは念願だったマン島のTTレースに参加しました。
メンバーは監督の河島、ライダーの鈴木義一、谷口直巳、鈴木淳三、田中楨助、メカニックの関口久一、廣田俊二、マネージャーの飯田佳孝、通訳兼ライダーのアメリカ人ビル・ハントの9人でした。
画像出典:ホンダ公式サイト
【屈辱】日本人は天井のネズミ?
全員夜遅くまで働いていたら現地の新聞に「日本人は天井のネズミ、能力が低くて能率が上がらないのだろう」と書かれていたそうです。
そして、マン島TTレース出場宣言からわずか5年後の1959年6月、TTレースに初出場することになったのです。
この年のマン島TTレースは宗一郎が視察した長いマウンテンコースではなく、短いクリプスコースで行われました。
125ccクラスのレースは1週17.36kmを10周します。
【結果】「ネズミ」の奮闘は?
予選では、RC142の谷口が12番、RC141の田中、RC142の鈴木義一・鈴木淳三、15番目までのグリッドをそろってホンダ勢が占めました。
6月3日の決勝では、RC141のハントがリタイヤになったものの、ホンダ勢は谷口が6位、鈴木義一が7位、田中が8位、鈴木淳三が10位でした。
鈴木義一と田中がブロンズレプリカを獲得したほか、メーカーチーム賞も獲得したのです。
「新聞の第一面にHondaチームのことが載ってる。もうネズミがどうとかなんてのはなくなって、よく読めないが、褒めてあるらしい。笑ったのは、Hondaベンリイ号っていう日本語のロゴが天地逆さまになってるの。向こうの人はもっと読めないよね(笑)」(飯田)
※引用:ホンダ公式サイト
実際には、「かつて見たことがない!高級時計のように精細だ」と書かれていたようです。
初参戦から2年後の1961年、そんなマシンの性能を証明するかのように、125cc/250ccの2クラスを完全制覇、1位~5位をホンダが独占したのです。
今回ご紹介したお話の動画
今回お伝えしたストーリーは、ホンダの公式チャネルが配信している動画で確認できます。
Honda原点コミックVol.3 「経営の危機とマン島出場宣言」
■ホンダ・バイク事業の歴史:全7話
- ホンダあつ~い歴史①:夢の始まり
- ホンダあつ~い歴史②:二つの夢が出会う
- ホンダあつ~い歴史③:経営危機からの脱出
- ホンダあつ~い歴史④:マン島TTレース
- ホンダあつ~い歴史⑤:海外進出アメリカ
- ホンダあつ~い歴史⑥:四輪進出からF1参戦
- ホンダあつ~い歴史⑦:悲願のF1グランプリ制覇